昭和五十七年四月三十日 朝の御理解
御理解
理について
今日は教典を開かせて頂いたら、ここのところ、全然御理解というところの真ん中の理という字を一字、こう頂くんです。だから今日は此の理について聞いて頂こうと思う。
理屈の理ですね。天地の理という天地の道理。理に基づいた、だから信心ということになるでしょうか、世の中には、理に基づかない信心が随分あるようですね、いわゆるおかしいね。人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心をせよと、教祖はおっしゃっとられますね、本当にそういう一点に、あらゆる宗教をしぼらせてもらうとま、素晴らしい教えがあるとか、大きな教団であるとかというてもね、その道理に基づいていないという点にしぼると、あのこれは、金光教以外にはない、そんな感じが致しますね。どんな立派な教えであっても。
例えばですね、教祖がおっしゃるように、人間は万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心ね、天地の道理にかのうた信心というのです。
私は「天衣無縫」という言葉を使うんですけれどもね、でないと天衣無縫というのは天がいうなら作られた、例えば此の衣ですね、着物というものは、大きいものが着ればその大きい人にピッタリと合う。小さい人が着れば、それが又ぴっったりと合うね。いわゆる天が作った着物には縫い目がない。無縫というのは二目がないね。
合楽で頂いとる、私が頂いとるこのおかげは天衣無縫のおかげですね、皆さんがご覧の通り、先だってからも、二、三年前に菊栄会の方達があの、研修の時に、もうそれこそ十万近くもするような立派な壷のお土産を頂いとったんです。所がどこへ持っていっても、それがまあ、いうならば、そのものひとつを見るといいですけれども、置く場所がないです。どこへ飾ってみても置いてみても、ピタッとこないから倉庫になおしてありました。ね。
ところがこの頃、大祭前に、今度会議室を先生方に、あそこでお茶をさしあげるということになったから、あそこの飾りを一遍、こう変えますから、私に見てくれというので参りました。
そして飾り棚の、飾り棚と・・このま、飾り棚と致しましょうかね、ここのところにあの壷を持ってきたら、ぴしっとあるかもしれないよ、もって来てご覧というて持って来らせて頂いたら、もう私のおる場所はここだといわんばかりに、きちっとそこに合うんですね。これは私が感覚的に見て、そう思うんです。
ここでいろいろ調度品が置いてあるのは、大体私の感覚ですけれども、この日なものがいいから、これを持ってきて良い、という事じゃないです。値段の安い高いでもないようです。
小さい、いうならばあの壷、壷っていう飾りものひとつでも、そこでなからなければいけないといったような感覚で、大体置いてありますよ、皆さん。はいね。だから成る程、神様がなさる事には無駄がないなあ、こんな素晴らしい壷出会ったから、これをどこかにでなくて、その置場所がない。
ところが御大祭で、ははあ、此の壷はここに置くべき、置かなければならないのであったなと、もうだから、こんなもん頂いたばってん役にたたんじゃなくて、それが必ず役に立つです。天衣無縫です。
例えば、此のご建築の時でも、あの泉水とか、あの、両親がおりました離れから、こう、あの辺は全部壊すということでしたね。だから私は壊させませんでした。神様が作んなさったつに、そんなはずはないね。あの皆さん、ずっとこう信徒会館の方へ入っていくと、あの泉水のあるところを、こう窓からご覧になって見なさい。向こうの家がなかったらなら、あの辺がさまにならない感じがします。 とにかく計画しても、こんなに素晴らしい事はなかろうと、こう例えば、あの廊下が出来ましたから、庭をちょん切らなきゃなりませんね。
だからそこに、又、別な庭を作らなんようでしたけれども、勿論、これは名人といわれる梅里さんの事ですから、いいやこれはこのままいいですよ、というてあそこへ長い廊下がでけて、なら庭がふたつに割れた。
けれどもわざわざそこの狭い庭に、こういう風に初めから灯篭がありますね、狭い方には灯篭も石も、植木、鯉もそのままですね。なら、こちらの方の広い方の庭も、ひとっつも植木を植え替えることもなからにゃ、石を動かす事もない。
そいでいて、ね、始めは、始めなりに良かったが、今度又、ふたつに切ったようだけれども、又そこで、そこに生きておる。そういうことを天衣無縫というのですね。
今そこに、お賽銭の後に杖立がありましょ、あれは椛目の時にね、当時の椛目は教会でもないのに、御結界を作ってはならないということをいわれまして、御結界を外して、あの楽室の方へ移しました。だからしばらくはあそこでお取次をさせてもらった。ですからあそこは、久留米の三橋先生がおる自分にお茶をするときに、あのう、使ってましたからその長い楽室に使っとった部屋を、半分に仕切らなければならない。時に丁度あの杖立が半分にあの小さい部屋を仕切るために、お供えを頂いたのが、あの杖立です。
ですから前の方はあの金箔で、後ろの方は久留米の三橋先生の好みで水色の杖立になりました。後ろは・・・でその水色の方でお茶をする。そいから金色の方では、私が御結界を座っておる。
部屋をふたつに仕切るために、あの杖立をお供え頂いたんです。あれはそのあん時に、田主丸の方をお供えしたんですけれども、どんなもので作ろうかと、表は金箔、後ろは水色。私が作るならやっぱ桑の木がよかばい、ち私が申しました。
ところがどこにも、ああいう桑の木がなかったんですね。もうところがありませんからというて、ありません。とにかくそれは、一遍お願いをしとるけん、探してご覧というて、三件目に行った、その製材所にですね、そこのご主人が出ろうとしておられるところにいった。ところがああ、桑の木ならあそこにあったですばい、見てご覧なさい、ち、いうて出ていかれた。そしてそこのいわれたところを見たら、もう積まれたようにしてあったのが、あの杖立を作った桑の木。丁度あの、杖立を作るだけの木がありました。ね。
そいで、まあ出来ましたんですが、んなら、あの杖立が私共がこちらへ移って参りまして、どこ行ってもあれがこれでなからなければ、此の寸法でなからなければでけんというように、いうならあのお賽銭箱が出来て来て、あのお賽銭箱にあつらえて作ったかのように、きちっとしてるでしょ。あれはあれに合わせて作ったんじゃないです。
椛目の、今いうように、御結界とお茶をするところを仕切るために出来た、あれは杖立です。
というような意味を私は、天衣無縫とこうね、天衣無縫というのは、神様が作られた着物、天が作った着物は、大きいものが着ても、小さいものが着てもピタッと合う。しかも縫い目がないという。だからそういう天衣無縫のおかげ、と私は合楽のおかげは、みんなそうです。
ですから、そういうなら、おかげはどういうところからかというと、私がどこまでも、天地の道理に合うた生き方、人間心を使わずに、いうならば、神ながらな生き方からしか生まれてこない。
いうなら、天地の道理、今日の御理解、理にあった生き方というのです。だからここで御神縁を頂いて、おかげを受けれる皆さんもやはり、お取次を頂いて、こうこうおかげを頂いたというその、おかげの中にね、その理に基づいたおかげでなからなければ、私は本当のおかげじゃないと思うです。いやいやいつまでも、天衣無縫に残らないと思う。
昨日から若先生、壱岐の方の郷ノ浦教会、末永先生ところの御大祭に参っております。光昭は宮崎の御信者さんのところの宅祭にいっ取ります。幹三郎は延岡にいっとります。して今日は、一番したの栄四郎が、私は栄四郎、あのう、けども別に話あっとったわけでもないけれども、んな、今日の朝の御祈念はやはり、栄四郎が奉仕することが出来た。
こりゃ、何十年の中にま、やはり私の子供なら子供がね、おらん時には次のつが、また次のつがというふうに、士農工商でピシッとこうはまって行くという感じがいたしましょ。今日のは一番したの栄四郎が奉仕いたしました。というようにです、もうそこだけが欠けるとか、困った、いやこれは困った。これはこんなもんな多すぎる、こんなもん頂いたばってん、なあにもならんというような事は絶対ないです。
それが何年後かに、それがきちっとそこにはまるように出来ておるのが、天地の働きなんです。その働きに順応するだけの信心というものが、なされなきゃならん、それをなら、合楽では、合楽理念に基づく生き方というのは、そういうおかげの受けられる、天衣無縫のおかげの受けられる在り方だ。
そういう意味に於いてですね、金光教ほど、素晴らしい宗教はない、十毛ですね。だから教団の中にでも、そういう天地の理というか、人間心ばかり使う御教会がありますよ。は、人間的にはすばらしいんです。ね。素晴らしいけれどもね、やっぱし、人間的なおかげしか現れません。神様の働きの場をなくしてしまうんですね。
だから、いうならば、自然をいよいよ尊重する生き方、そこから、あの薫という字じゃないですけれども、草冠に、重んじると書いて、心、点ね、そういう生き方から、薫るようなおかげと神様はおっしゃるのですから、お互い折角の、おかげでも、薫るようなおかげを頂きたいですね。理に基づいたね。
先だって、今度御道の新聞が参りましたが、今度大阪の白神先生が亡くなられて、百年になる。その百年になりますので、いろいろとまあ、手続きの先生方が、今度の新聞にいろいろ書いておられます中に、堺教会長ね、この大和さんのお嬢さんが嫁いっとります教会です。白神先生の四代目かに当たられるですね。それで、父やら爺やらが云っておった事をいろいろ書いてございます。
なかにね、いろいろあの当時のいわゆる、文明開化の時代ですからね、明治の。外国の人がどんどん入ってきて、やはりあの牛肉なんかを食べるようになった。その時分、日本でも四つ足を食べるなんてんといって、いうふうに云っておったけれどもね、こうしてすき焼きね、牛鍋何かが出来るようになって、あれをその、食してもどんなもんだろうか、というて白神先生が教祖の神様にお尋ねになった。ところが教祖の神様がおっしゃってられる事はね、「天子様がお許しになったものは何を食してもいい」とおっしゃった。云うならば、人間の生命のために作り与え給うものだから、何を頂いても良いというふうにま、おっしゃったわけですね。
けれども、「私はね、百姓をしておった時分に、牛のお世話になっておるから、私は食しません」とおっしゃったそうです。ま、その辺のところにね、教祖のその人間性というか、も、何とも云えないものを感じますね。
食べてはいけんとはおっしゃらないのだから、食べていい、て、けども私は牛のお世話に百姓の時になっておったから食べんとおっしゃった。というような事が出ておりますね、折角私共がおかげを頂いて、例えば、お酒は飲んではならんね。生臭気は食べてはならんともしいう宗教があるとするならば、も、これだけでもおかしいでしょうね。
例えば生臭気は食べちゃならんね、牛肉は食べちゃならんと例えばこういう風なね、又はお酒は飲んじゃならんとね、仏教、キリスト教がしかりですね。
どこまでも人間万物の霊長であるから、万物を見て道理に合う信心と、この食物訓の中から頂いても金光教が偉大であると同時に天地の道理に合うた宗教だ。それをだから折角そういう素晴らしいなら、教えをお互い頂いとるのですから、その教えに基づいた天地の道理に合うた生き方をさしてもろうてね、云うなら、今もうします天衣無縫の云うならば、必要な時には、必要なものが集まって来る、というようなおかげを頂きたいですね。
合楽ではそうでしょうが、必要な時には必要なものがちゃんと集まってくるね。必要な人が、なら必要な人が集まってくる。これはもっともっと云うならば、大きく広くこちらの信心が進んで行くに従って、そういうおかげになってくる事だと思います。
私は今日、御神前で御心眼に頂いたのが、”梅の木ではないけれども、梅の木みたいな花も葉もないごたる木に、ウグイスがとまってるところを頂いたんです”どう云うことだろうかと、こう思うて、今日の理から云うてです、理に基づいたおかげでなからなければ、ただ、御利益御利益というて、お願いをして、おかげを頂いたおかげは、それは丁度梅の木でもない、梅の花も咲いていないのに、ウグイスだけがとまっておるようなもんじゃないでしょうかね。
やはり信心辛抱梅の花と云われるから、信心の辛抱の徳を受けて、そこにゆくふくとした梅の花が咲き香る。その香りにそれこそ引き寄せられるようにして、ウグイスが着てホーホケキョをさえずるといったようなおかげを頂いてもらいたいと思うです。
信心辛抱も出けずに、ただ、ウグイスが来て止まりますように、ウグイスが来てホーホケキョばかり聞きたいというたんでは、良し聞かれるかもしれんけれども、それはね、花も咲かない木に、ウグイスが来て止まっておるような、私はものだと思いますね。
香るようなおかげになってこないです。信心辛抱の徳を受けてね、それこそ梅の花が咲きほころんできた。そこへウグイスが来て止まるといったようなおかげが今日、私は合楽で現れてくるおかげの様子だと思うんですね。為にはどうしても皆さん理に合う信心。
昨日は敬親会でした。皆さんお年の方達が、それぞれ信心発表をなさってました。最後の千代田さんのお婆ちゃんがも、七十五ですかということでしたが、まだ若々して、毎日日参をしてきます。これは私が若い時分から知っておる方。あちらの御主人になるとが、私が北京時代の酒屋をしとる時に杜氏にきとりました。杜氏さんでした。その千代田さんがね、もう口を開いて、そのほめだしたら時分の家内の事。も、私げん家内のごたるでけた女子はおらん。も、あげな仏様の御たる女子はおらんというても、それこそべたほめでしたがね。本当に主人からほめられる程しに素晴らしい人なんです。
ですから私は昨日お話を聞いた後にもうしました。もう千代田さんばっかりは、合楽の者は皆、心ひとつで全てを創るというて、心に取り組ん取るけれども、あなたはも、心に取り組む事はいらんからね。もう教えに取り組んでさえいくならば、もうあなたは明神様になられるばいと云うて、ま、申しました事でした。女の神ね、あの、西六の明神様といったようなえらい女の先生がおられましたが、女の方が徳を受けると、明神様と云うた。も、千代田さんのお婆ちゃんなんかは、あれに教えに取り組んだらも、確かに明神様になれるような内容を持ってるんですね。
ところがです。教祖がおっしゃるように、”信心しておかげを受けるのは、人の良いのと悪いのとは別物じゃ”とおっしゃとられる。どんなに仏様のような人であってもです、ならもう、私共は心ひとつに取り組んどるけれども、千代田のお婆ちゃんは心はも、そんなに美しい。とにかくというて、おかげになるのじゃないね。そこになら、教えに基づいた生き方。云うなら理に合うた生き方を出来る時に、それこそ明神様にもなれるような内容を持っておられる方だというて、まあ申し上げました事でございますがね、お互いが、今云うならば、心にも取り組む、教えにも取り組むその教えは、合楽理念に取り組んで一切が合楽理念に基づくところのおかげを頂いて、参っておりますとですね。いよいよ成り行きを大事に自然を尊ぶ。いうなら草冠に自然を重んじる心。
そういう生き方をいよいよ生活の上に表して行くならば、それこそ、薫るような、その薫るようなおかげとはね、梅に咲いてウグイスが来て止まるようなおかげ。云うならば天衣無縫のおかげの受けられる、皆さんは信心の稽古をなさっておられるんです。今日はこの理という字を一字頂いたからま、理に基づいた信心。また、理に基づいたおかげを頂かなきゃならん。どうぞどうぞと云うてお願いして頂くというのは理に基づかん。ね。
それでは、いうならば、梅の木でもない木にウグイスがとまっておるようなおかげであると知らなきゃなりません。ね。梅の花、そしてそれが薫るような、その香りにね、それこそ自然と来いといわんでも、ウグイスの方から来て止まるようなひとつおかげを頂きたいですね。 どうぞ